幼少期の憂鬱
最近よく思う。
《大人になって本当によかった。》
学生時代は学生時代の楽しさがあるし、それはもう大人になってからでは一生手に入ることはないかけがえのないものだ。青春の楽しさを知らぬまま、大人になることは不可能だと思っている。が、それでもやはり「大人」は最高だなと思う。私は大人になってからの人生が楽しい。
ついこの間、漫画を大人買いした。番外編?も含め20巻まである。ちまちま揃えることは一切考えずに、バン!とAmazonで一気に購入した。買って持ち帰るというのは荷物になるし、その時間が本当に苦痛だ。そして更に今、この暑い時期。何冊もの漫画を持ち帰るだなんて相当ハードな罰ゲームだ。その煩わしさを指先だけで解消できる通販の大人買い。素晴らしい。私は冷房の効いた部屋で待っているだけ。しかも最初から最後まで一気に物語を駆け抜けられる。いい事しかない。ありがとうAmazon。
私が大人になって本当に良かったと思う理由はそれだけではない。
学生時代、主に小学生の時に抱えていた憂鬱がある。それは休み時間、「外で遊ぼう」と友達から誘われる事だった。
私は外遊びが嫌いな女児であった。出来ることなら教室の中でお絵描きをしたり、あやとりをやっていたかった。地味だろうが暗かろうが、私にはそれが幸せな休み時間の過ごし方だったのだ。しかし小学生の私は誘われたら断る事も出来なかった。断ったらもう二度と遊んでもらえないかもしれないと思っていたからだ。
ここで、外遊びの中でも特に嫌いだった遊びを紹介したい。
まずは追いかけっこ系のもの。どろけい、色鬼、氷鬼、高鬼… なんでもいい。とにかく追い回されるのが嫌いだ。どろけいで警察をやるのであれば完全に泥棒を追いかけるフリをしてサボっていたいタイプの警官だった。なので私はいつも警察を所望していたが、運悪く泥棒になるとそれはそれは憂鬱だった。一体何の罪で追われているというのだ。悪いことなど何もしていない。まあ一旦捕まったらあとは楽が出来るので、テキトーに逃げてから捕まってしまえばいい。あとは牢屋の中でサボっていよう。私はそういう考えの泥棒だったが、「他の泥棒がタッチすると牢屋から出られる」という謎ルールのせいで吸いたくもないシャバの空気を再び味わう事になる。放っておいてくれ。また警察に追われて汗をかきながら逃げ回る運命が待っているのなら、私は大人しく捕まっていたい。そもそもタッチしたら出られる牢屋とは何なのだ。どんなセキュリティだ。ロケット団やバイキンマンですらびっくりするほどの詰めの甘さ。ガバガバの牢屋をまず改良しろ。話はそれからだ。
色鬼、高鬼、氷鬼、このあたりも何も面白さを見出さずに私の幼少期は終わった。そもそも足が遅いので、走る系は圧倒的に不利なのだ。
次にドッヂボール。
これについてはよく考えてみてほしい。
「わざわざ人にボールを当てる」こんなに底意地の悪いゲームがあるだろうか。ドッヂボールはいじめを助長していると言っても過言ではないだろう。私は何であれボールが自分に向かってくるという状況がとにかく怖かった。バスケでもどうか自分にボールが回ってきませんようにと祈っていた。パスされたらすぐにパスする事しか出来ない。もはやそれはパスではなく爆弾をなすりつけているのと同じ感覚だ。
ドッヂボール用のボールは主に2つある。フカフカのポヨポヨの、速度はあまり出ないタイプのボールと 堅めでポヨポヨボールよりひと回り小さい、投げ方によっては殺人的スピードの出るアイツだ。
私はポヨポヨボールの時はいくらか心穏やかにドッヂボールに参加できたのだが、やはり運動の出来る奴はどうしてもアイツの方を使いたがる。己のボールのスピードを披露する為だ。こちらはただの被害者の会である。はた迷惑な話だ。
「ボールが向かってくる」ということに恐怖を感じていた私は、外野が大好きだった。外からのほほんと中にいる人間にボールを投げられる。自分の非力さを十分に理解していた私は、自ら積極的に中にいる敵にボールを当てにいくようなことはしない。私の投げたボールに当たるのなんて、せいぜいカタ×ムリくらいだろう。なので外野になっても、敵の陣地のその奥にいる中の味方たちにやさし〜くパスを出していた。ドッヂボールにおいて外野というのは神の領域。私はずっとここにいたかった。
だがドッヂボールにも謎ルールが存在する。「外野は途中で中に入ることが出来る」というものだ。いらんいらん、望んでへんぞこちらは。という気持ちでいっぱいだった。しかもそのタイミングは中にいる運動神経抜群野郎から「おい、そろそろ入ってこい、出番だ」と指示を出されるのである。神の領域にいたはずの我々が、真の支配者に虐げられ、盾にされるのだ。こんな理不尽な事があるだろうか。私は最初に課された業務を最後まで全うしたい。
こうなると、ドッヂボールの最善策は何かと考えた時に「最初から外野になる」はベストではない。そう、一番良いのは「あまり運動神経の良くない奴の投げたボールが、あまり痛くない部分に当たって外野に行く」という事である。これは完璧な流れだ。恐怖も少ない上に、もう二度と中に入らなくても済むのだ。本当に神の領域を手にする事が出来る。
しかし場合によってはこの策も謎ルールにより妨げられる。
「当たっても脚はセーフ」というものだ。
いや、セーフとかないから。
と、言いたかった。私はずっとそんな気持ちを抱えていた。脚なら当たってもダメージは少ないので是非ともコチラに…という思いなのだが、脚に当たると見逃されてしまう。外野への道のりは隔たれるのだ。
私は脚にボールが当たっても出来ることなら「イヤ!今の脚じゃなかったんです!多分腰辺りだったんで!脚じゃないんです!!!!」という交渉がしたかった。
そんなわけでドッヂボールは人生で一度も楽しめた事がない。
そして次。これが恐らく私の知る中で一番地獄のような遊びだ。それは私が小学生1.2年生の頃に付き合わなくてはならなかった遊び。
「みくちゃんとやるお姫様ごっこ」
正直、どろけいもドッヂボールも「みくちゃんとやるお姫様ごっこ」には到底敵わない。地獄レベルが段違いなのだ。
これは私と2人きりでやる遊びではない。何人かキャスティングしなくてはならない。
まず役はみくちゃんが決めたパターンがある。
お姫様、家来、泥棒。お姫様は大体3人はいるが、みくちゃんが一番末っ子のお姫様だ。これは決定事項で絶対に揺るがない。
あと2人のお姫様も、カースト上位のクラスの女の子がかっさらっていく。私はせいぜい家来か泥棒をやらされる。
そしてこのお姫様ごっこ、何がメインなのかというと「泥棒が一番年下で可愛いお姫様を拉致する」というイベントだ。もはやそれしかない。家来は何をやる役なのかもう思い出せないほど、そのシーンの記憶しない。人を攫う泥棒とは…?という疑問が生じるが、その辺はまあ小学1.2年生が考える事なのでスルーしよう。
泥棒になると拉致したくもないがみくちゃんを追い掛けなくてはならないハメになる。この辺りはもう私の大嫌いな追いかけっこ系遊びにも通ずるものがあり、ダブルの苦痛なのだ。
みくちゃんは本来であれば私より遥かに運動神経は良かったので、私から逃げ切ることは容易いだろうがここではお姫様なのでめちゃくちゃ手加減をしてくる。そして私ともう1人の泥棒に捕まる。ここだ。ここがメインイベント。
みくちゃんの渾身の演技、
「私はいいから!みんなは逃げてぇ!」
と嘆き、2人のお姫様は逃げさせ、自分は捕まる。みくちゃんはお姫様ごっこというより悲劇のヒロインごっこがやりたいのだ。我々は毎回毎回毎回、この茶番に付き合う。この遊びで楽しいのはただ1人、みくちゃんだけである。しかしみくちゃんがカースト1位な女子というポジションである以上、断る権利はない。
みくちゃんが風邪で休んだ日、私はのびのびと昼休みにおとなしい友達とお絵かき帳にポケモンを描いてキャッキャうふふと楽しんでいた。一見地味なこの日が、私の中で永遠に「楽しかった昼休み」の記憶である。
大人になって本当に良かった。
大人になるという事は、生きる場所を自分で選べるという事だ。私はもう泥棒をやらなくてもいい。学校という狭い世界では、どうにかそこで上手くやっていかなくてはならず、時には気乗りしない遊びにも付き合わなくてはならない。自分の意見を素直に言って、明日からの自分の立ち位置がどうなるかわからない不安を常に抱えていた。女の世界は特にそうではないだろうか。大人になった私を取り巻く世界は、やっと手に入れた安息の地なのだ。
今、もし校庭で人知れず俯いている小学生を見掛けたらこう言いたい。
「大人はいいぞ」と。