残骸

映えない人生

ブログと私の間には

私の初夢は三四郎の小宮とマスク越しにキスをするというものだった。何故、小宮? いや、小宮側も選ぶ権利はあるから文句とかではないのだが単純に 何故 という気持ち。

芸能人で言うならハライチの岩井さんが好きだが恐れ多くて夢ですらキスとか出来ない… だから小宮だったのか。小宮とはなんの抵抗もなくしていた。何故あんなにも小宮を自然に受け入れていたのだろう。前世で何かあったのかもしれない。

 

 

 

私は思った。

 

特に人の為にはならない、このブログのようなブログは 本当に暇人の産物なのだと。暇人による暇人の為のブログでしかない。人生に充実している人ほど、ブログなんてやらない。私はわかってしまった。いや、ブログと言っても人の為になっているブログは別だ。あれを書いている人は充実した人生を送っているか、充実した人生を送っている自分に酔っているかだ。

そんなわけで誰の為にもならなくとも、暇人だと思われようと私はブログを書く。

ブログに対する思いを巡らせていた時、ふと「何かに似ているな」と思い当たった。なんだろう。感じたことのあるこの気持ち。なくてはならないが、自分に余裕がある時にしか やるぞ! と思わない、この感じ。そうだ、これは

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

性欲か。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

性欲について、私は以前にこう考えたことがある。食欲も睡眠欲も、自分に元気がなくともある程度は自然に湧いてくる。生きる為なのか、体が求める。だがしかし性欲はどうだろう。自分がはちゃめちゃに元気な時に初めて湧き出てくるものではないだろうか。体調不良の時はもちろん、悲しみ、不安、怒りなど心にネガティブな感情が割合を占めている時も性欲は大人しい。性欲とは万全な自分にのみ許された高尚な欲。しかし稀に「愛されたい」などという理由や、寂しさを埋める為に性を使ってしまうことがある。この場合、欲がその人を動かしているわけではないので単なる性欲ではない。その先にある感情に期待して性を利用しているだけである。ちなみにこの行動で埋まる寂しさなどはない。断言する。一時的に解消されたとしても寧ろそのあとの反動が5倍くらいになって返ってくる。この時の感情を、人は「虚しい」と呼ぶ。これはセックスもオ○ニーも同じである。(なんとなくセックスはセックスという表記でいいが、オ○ニーは生々しい気がするので伏せ字を使ってみる)  「あ〜〜なんかむしゃくしゃするな、一発抜くか…」の、先の感情はやはり「虚しい」のである。賢者タイム5倍モードが跳ね返ってくるのだ。なんたる地獄。ちなみにこれが実体験なのか想像で書いているかは読者の想像に任せる。

 

この例は「性欲」ではないのだ。

相手がいようがいまいが、心朗らかな行為があって初めて性欲が満たされる。そしてその欲は「心身共に元気」という条件をクリアした時にのみ現れるイベントだ。そう、それはブログも同じなのだ。中には「病みブログ」というものも存在するが、これもまた性欲の話とリンクする。病みブログを書いてすっきりするのはその時だけなのだ。その先にある感情は「うわ、恥ず」なのである。元気な時に読み返す、自分のテンションがあからさまに下がっている記事は見るに堪え難いものだ。私はやや薄目で見ることしか出来ない。

 

ブログも性行為も、元気な時にするのが一番だ。

 

 

 

 

 

 

 

この記事の中で何度か「私は何を書いているのだ?」という気持ちになった。今、私は彼と住んでいるがまさかこんな下らない内容を、こんなに真剣な眼差しで書いているとは彼も思っていないだろう。

 

「下品」「お前母親になるのにこんな記事書いてんのか」などという苦情に対しては 一番便利なこの言葉を贈りたい。

 

 

 

 

 

 

「嫌なら見るな」

 

 

 

 

 

皆様今夜もよい夢を。