残骸

映えない人生

真摯なヘイト

 

「嫌いな食べ物ある?」

 

と聞かれた時に、即答出来るだろうか。

私には「嫌うまでではないが出来るだけ避けて生きていきたい食べ物」というカテゴリーの物はいつくか挙げられるが、もう絶対死んでも口に含めないというものはあまり思い浮かばない。強いて言うなら、という前置きがあって初めて色々出てくる。

 

 

 

 

その中にお麩がある。

 

 

 

理由は私が虫で言うとナで始まってジで終わるアイツがこの世で一番嫌いなのと同じ気がする。とにかく、「存在意義がよくわからない」のである。ナから始まってジで終わるアイツについては、過去の記事でも述べていたように生きているくせに生きようとする積極的な気持ちを感じられず、ただただジッとそこに滞在している様が私には恐怖なのだ。気持ち悪い。じゃあ何故生きている。花とか食うな。容姿に合わせてもっとおぞましい物を食え。

 

 

それで言うと、お麩もそうなのだという事に気付く。何の為にあるのかがさっぱりわからない。よく色の付いたものが彩りとして添えられていたりもするが、こちとら食べ物にそんな色合いは求めていない。ピンクや緑、黄色などが一堂に会するのはアメリカのお菓子だけで十分だ。

それからよく「お麩が嫌い」と言うと「えー味しないじゃん!」と言われる。それが意味不明なのではないか。何故、味のない物をわざわざ食うのか。吸った汁がおいしいのであればそれはそもそも汁がおいしいのであってお麩がおいしいわけではない。そんなに何者かに汁を吸わせたいのならスポンジでも食ってろと思う。

「お麩が嫌い」と言うと必ずこの流れになるし、食卓の中での登場回数も少ない。となるとわざわざ公言する必要があるだろうかと考えてしまう。嫌いは嫌いだが、人に嫌いだと言っておかなければならないほど、奴とは出会さないのだ。

 

ここで私は「大体お麩なんて大した栄養価もないくせに」と、散々こき下ろそうとした。見た目をディスり、中身をもコテンパンにしてやろうという腹である。しかし特に調べもしないで色々言うのはどうだろう。もしかすると思い込みの可能性もある。まあ、あんなスポンジに栄養なんてあるわけないが念の為調べておこう。知った上で堂々とこき下ろそう。そう思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

栄養が、あった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

寧ろなんであるんだよあの容姿で。

汁を吸うくらいしか能がないと思っていたのに。とんだ裏切りを受けた。私のこの行き場のない気持ちはどうなる。

 

 

 

しかしここまで書いて、ようやく気付いた。

私はお麩の事を「嫌いと言うまででもないが出来るだけ避けて生きたいもの」とカテゴライズしてきたが、正々堂々嫌いだった。まごうことなき、お麩アンチ。

 

 

 

私が嫌いな言葉の中に「嫌よ嫌よも好きのうち」というのがある。嫌よ嫌よ、2回も繰り返し言っておいて好きのうちなわけがないだろう。そんなマイナスとマイナスで結果プラス、みたいな原理は人間には通用しない。人の心は数式ではない。勝手に好きのうちに含めるな嫌なものは嫌だ。

 

嫌だと思っているものを実は好き、なんて事は絶対にありえないが、「好き」と「嫌い」で消費するエネルギーは同じくらいかもしれない。もし 嫌いなもの、好きなもの、どうでもいいものがあったとして それぞれの題材でブログを書けと言われたら多分好きなものと嫌いなものに関しては同じくらいの文字数、熱量でかけると思う。ただどうでもいいものに関して、多くの人は書けないと思う。書けるのはまぁ、私くらいだろう。

 

 

 

 

だから私はお麩が嫌いだと堂々と宣言する。

そんなこと言って、実は好きなんでしょ?とかではない。真剣に嫌いだ。じっくり考えを煮詰めた上で、嫌いだ。

 

ブログを書いていると新たな自分に出会うことがある。好きな物を好きだと素直に言うように、嫌いな物に対しても真っ直ぐでありたい。ただしあまりにも信者の多い人・ものに関してはなるべく悪口は書かないようにしたい。シンプルに突撃されたらおっかないからである。確かに私は敵を作りやすい性質ではあるが、無駄な争いは避けたい。しかし私のようなお麩アンチがいるということは、お麩信者もいる可能性も捨て切れない。アンチがいるということはすなわち、信者もいるということ。

今、こうしている間にもお麩信者は「お麩 嫌い」「お麩 アンチ」などのワードでググって爆破準備を進めているかもしれないのだ。

 

 

お麩信者がこのブログに突撃してきたら、と思うと恐怖に震える。今夜は眠れそうにない。